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東京高等裁判所 昭和37年(う)1822号 判決 1963年3月19日

本籍 横浜市南区大岡町字千保千二百九十六番地

住居 同市神奈川区六角橋町三百五十二番地

店員 中川俊介

昭和十六年二月三日生

右の者に対する暴行、公務執行妨害被告事件について、昭和三十七年五月七日横浜地方裁判所が言い渡した無罪の判決に対し、検察官から適法な控訴の申立があつたので、当裁判所は次のように判決する。

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役弐月に処する。

但し本裁判確定の日から壱年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は検察官提出の控訴趣意書に記載されたとおりであるからここにこれを引用し、これに対し次のように判断する。

第一  中川チヨウに対する暴行の公訴事実につき原判決の事実誤認及び法令適用の誤を主張する論旨に対する判断

一、≪証拠省略≫を総合すると、被告人は、昭和三十四年三月高等学校を卒業し、会社事務員に就職後半歳位でそこを罷め、以来転々職を変え、同三十六年九月末頃から肩書自宅で無為徒食していた者であるところ、同年十一月初頃母チヨウ及び姉啓子に無断で姉啓子名義の定期預金証書を持ち出し、元利合計約二万五千円の払戻を受け、その全額を遊興費等に費消し、更に同年十二月九日姉啓子に自己の洋服代約一万円を無心し、断られるや腹立ち紛れに同女からその通勤定期券及び現金数百円在中の財布を取り上げて反さなかつたので、母チヨウが思い余つて所轄神奈川警察署六角橋巡査派出所勤務の神奈川県巡査小林修に、被告人の非行を説諭して貰うべく来宅方を依頼し、同月十日午後一時頃右小林巡査が被告人の肩書自宅に出向いたのであるが、被告人は自宅玄関脇四畳半の間において同巡査の姿を認めるや、同巡査が自己を前記非行の廉により逮捕しようとするものと早合点し、裏口より屋外へ逃げ出すため右四畳半の間から六畳間へ向おうとした際、母チヨウがこれを阻止しようとしてその境の襖を閉ざし、襖の前で被告人の進路に立ち塞がつたので、母チヨウを排除して逸早く屋外へ逃げ出す目的を以つて、且つ又、自己の非行を警察官に通報し、敢えてその来宅方を求めた母チヨウの仕打に対する憤慨の念にも駆られ、自己の前に立ち塞がつた同女の顔面をいきなり手をもつて数回続け様に殴打したという事実を充分に認定することができる。

二、被告人の右所為を暴行罪の構成要件に照合して見るに、暴行罪は人の身体に対し有形力を行使するによつて成立し、その「人」とは、犯人以外の生存自然人であれば足り、それ以外同罪の成立上何らの要件も存在せず、犯人と被害者の間に親族関係の存することは同罪の成立を妨げる事由とならないのは勿論のこと、その刑を免除する事由ともならないから(親族相盗等についての刑法第二百四十四条第一項、第二百五十一条、第二百五十五条各参照。なお暴行罪は曽て親告罪であつたが、昭和二十二年法律第一二四号により非親告罪に改められたことに留意。)、いやしくも前叙構成要件に該当する故意行為に出た以上、特に行為の違法性を阻却する事由の存在しない限り、暴行罪の刑責を免がれ得ないものと解すべきところ、被告人は前示認定の如く、自己の進路に立ち塞がつた母中川チヨウを排除する目的等から同女の顔面を手をもつて殴打したのであるから、その所為たるや前叙暴行罪の構成要件に該当すること明らかな類型行為であるといわなければならない。

三、しかるに、原判決は被告人の前示所為については違法性を欠き犯罪を構成しないものと断じているので、次にこの点につき考察する。

(一)  まず、前掲各証拠により本件発生の契機及び事件の経過を見るに、被告人は五才の頃父浩次郎に死別して以来、姉啓子と共に母チヨウの女手一つで育てられた故か、兎角我侭が強く、生来の意志薄弱も手伝つて、決して豊かとはいえない家計の中から高等学校まで卒業しながら、生活態度に真剣味がなく、敢えて定職に就こうとせず、漫然母と姉の勤労収入に依存して無為徒食の日を送り、挙句の果ては前記認定の如く、姉の定期預金を無断で費消し、その非違を母や姉に咎められたに拘らず更に反省するところなく、姉から通勤定期券等を取り上げて返さないという非行を敢えてしたものであり、被告人の右定期預金費消等の所為はそれ自体既に刑法に触れる疑があるのは勿論のこと、日頃のかかる生活態度は母子三名のささやかな家庭の平和と秩序とを紊し、健全な家族共同生活の維持を困難にする体のものであつたと評して妨げない。さればこそ母チヨウは、被告人の度重なる非行に困却し、このまま放置すれば遂には他人の財物にも手を出すようなことになり兼ねないものと憂慮し、予々町内隣組回覧板により、家庭内で手に負えない者があれば警察に相談するようにとの回報のあつたことを思い出し、隣家には実兄原悦勅が居住していたにも拘らず敢えて同人に諮ることなく、啓子と相談の上、従来一面識もない所轄派出所勤務の小林巡査に、被告人の非行を説諭して貰うため来宅方を依頼した次第であり、母チヨウの右措置は子の非行を矯正するための方途として必らずしも妥当とはいえないとしても、それは寧ろ被告人の非行が敢えてかかる非常手段に出でざるを得なかつた程に進んでいたことを如実に物語るものであつて、子の将来を案ずる母の心情としては洵に無理からぬところであるというべきであろう。

果して、被告人においても本件当時既にみずから自己の非行の程度を自覚しており、前記十二月十日午後一時頃小林巡査の姿を認めるや、てつきり同巡査に逮捕されるものと思い込み、逸早くその場から屋外へ逃れるため、且つ又、自己の非行を警察沙汰にした母の仕打に腹を立て、逃げ出そうとする被告人の前に立ち塞がつた母に対し、前示認定の如き暴行を敢えてしたのである。

(二)  (1) 叙上の事実関係に徴し果して違法性を阻却すべき事由が存するや否やを検索するに、被告人の母チヨウに対する本件暴行の動機、目的は自己の非行の責めを逃れんがためであつて、社会通念上許容し得ないところである。

(2) 右目的を遂げるための手段、方法としても、それは、抵抗力の弱い五十才近くの女性に対したとえ手をもつてしたにせよ身体の枢要部である顔面を数回続け様に殴打したものであり(しかも前掲各証拠によれば、母チヨウはその際はずみでその場に転倒したことも認められるのである)場合によつては、これにより相手方の身体に回復すべからざる損傷を与える虞れもあるのであるから、右目的のための手段として相当でないことは明らかであり、原判決認定の如き親しい家庭員相互間の軽度の単なる乱暴とは到底同日に論じ得ない。

(3) 被告人の右暴行の所為は、小林巡査の来宅を自己に対する逮捕のためと早合点し、母チヨウを排除して逸早く屋外へ逃げ出す目的に出たものであり、被告人はこれにより自己の行動の自由を保全しようとしたのであるが、母チヨウの制止によつて、たとえ右行動の自由が制約されたとしても、それは単に一時的な制約に止まり極めて軽微であるのに対し、他方母チヨウが被告人の右暴行により侵害を受くべき法益は前叙の如く同女の身体の危険に拘わる点において前者より遙かに重大なものである以上、両者の法益がその均衡を失することは論をまたない。

(4) 更に、被告人は、前記の如く、単に小林巡査の姿を認めただけで即座に同巡査が自己を逮捕するものと思い込み未だ同巡査が被告人に対し何ら実力行動に出ず、声さえも掛けない内に、その場から屋外へ逃げ出す目的を以て、母チヨウに対し暴行の所為に出たものであり、当時の情況としては、被告人が本件暴行の所為に出でざるを得なかつた程の緊急な事情は些かも存せず、又たとえ、その場から屋外へ逃げ出すにしても、母チヨウを殴打する以外に他の方法によることが全く不可能若しくは著しく困難であつたとは認め難い。

(三)  以上本件発生の契機、事件の経過、被告人の暴行行為の動機、目的、その目的を遂げるための手段、方法及び右行為により保全しようとした法益と侵害されようとした法益との権衡、行為時における情況上の緊急性等、一切の関連事情を総合して考察すると、被告人の本件暴行の所為は、それが子から親に対してなされたものである点を考慮外に置くとしても、決して軽微な単なる乱暴と認むべきものでないから、原判決は先ずその前提たる事実の認定において誤謬を冒しているといわなければならない。そして叙上の認定よりすれば、右行為が刑法第三十五条ないし第三十七条所定の各事由により違法性を阻却される場合に該当しないことは明らかであるのみならず、該行為は、家庭をはじめ社会共同生活の平和と秩序を乱すもので、社会正義の理念に反し、社会的相当性を欠き、法律秩序全体の精神に鑑み到底是認され得ないところである。

固より、刑罰法令の構成要件に該当する行為であつて、刑法第三十五条ないし第三十七条所定の各事由により違法性を阻却される場合に該当しなくても、その行為当時の諸般の事情に照らし具体的、実質的に考察した結果全体としての法秩序に違反しないと認むべき合理的根拠があるときは、超法規的に違法性を阻却される場合があることはこれを認容しなければならないとしても、刑法が違法性阻却の事由を或る特殊例外の場合に限定し、且つその要件を極めて厳格に規定していることに思いを致せば、漫りに法に明文のない違法性阻却事由を認むべきではなく、刑法の規定するところと同等若しくはそれより一層厳格な要件の下にこれを認むべきものとすることが刑法の根本原理に副う所以である。原判決は叙上被告人の所為につき実質的違法性阻却事由が存するものとして縷々その理由を論述するのであるが、原判決がその事由として摘録するところのものは、単に犯罪発生の原因及び犯罪後の情況に存する憫諒すべき情状たるに過ぎず、これを以つて超法規的に行為の違法性を阻却するに足るべき諸要件を具備しているものと解することはできない。要するに、原判決は本件暴行の公訴事実に対し、所論のとおり行為の実質的違法性についての判断の基準を誤解し、その結果法令の解釈適用を誤まつたもので、右事実の誤認及び法令の解釈適用の誤は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由がある。

第二  巡査小林修に対する公務執行妨害の公訴事実について原判決の事実誤認及び法令適用の誤を主張する論旨に対する判断

一、≪証拠省略≫を総合すると、被告人は、前示第一の一に認定した如く、昭和三十六年十二月十日午後一時頃肩書自宅の玄関脇四畳半の間と奥六畳間との境附近において母チヨウの顔面を殴打する暴行の所為に及んでいる際、神奈川県巡査小林修が同家玄関からこの状況を目撃し、現に行われている右暴行を制止し、且つこれを放置すれば更に継続して行われることの予想される次の暴行を予防する目的を以つて、「おふくろさんに何をするのだ」と言いながら急遽座敷内に踏み込み、被告人の背後からその手を掴んで取り押えようとするや、右小林巡査に向き直つて組み付いて行き、同巡査と激しく格斗中、同巡査の携帯する拳銃を奪取すれば同巡査が拳銃に注意を奪われてひるみその手から脱することができるものと考え、同巡査を制圧する目的を以つて、その腰部に携帯している拳銃の銃把を握つてこれを引き抜き奪取しようとする所為に出た事実を明認することができる。

二、右認定の事実関係によれば、巡査小林修が被原人の背後からその手を掴み取り押えようとしたのは、中川チヨウに対し現に目前で行われている被告人の暴行を制止し、且つ当時の状況下において放置すれば更に継続して行われるものと予想された次の暴行を予防しなければ、同女の身体に危険が及ぶ虞れがあると直感し、急速を要する場合として、実力行使に及んだものであると認められる。

ところで原判決は小林巡査の右実力行使は違法であると判定しているので、次にその当否について考按する。

(一)  小林巡査が制止し、且つ、予防しようとした被告人の母チヨウに対する暴行の所為が刑法第二百八条の罪の構成要件に該当し、如何なる点においても違法性阻却事由の存在しない犯罪行為であることは前示第一において説示したとおりであるから、右被告人の所為が罪とならない行為であるとの前提に立つて、同巡査の被告人に対する実力行使行為の適法性を否定する原判決の見解は失当である。

(二)  前掲各証拠によれば、小林巡査は、被告人が母チヨウの顔面を手をもつて数回続け様に殴打している状況(更に同女がその際はずみでその場に転倒した事実)を現認し、右の如く現に目前で行われている暴行を制止すると共に、右の情況下においては更に引き続き加えられそうな同種若しくはそれ以上の暴行により同女の身体に危険が及ぶ虞れがあると即断し、これを予防するため、急速を要する場合として、急ぎ座敷内に踏み込み、前記の如き実力行使に出たものであると認められる。該事実に徴すると、当時の情況として、中川チヨウの身体の安全保持上、一刻の猶予をも許さないほど切迫していたことは、同巡査が靴履きのまま座敷内に踏み込んだ一事のみによつても優にこれを首肯し得べく、同巡査の被告人に対する実力行使は、原判決の認定する如く、被告人の母チヨウに対する暴行が既に終了し、事態が落着した後になされたものでないことが明白である。されば、右実力行使行為が最早これを許さない時期になされたものであるとの認定に立つて、該行為の適法性を否定する原判決の見解もまた失当である。

(三)  然らば、小林巡査の被告人に対する前記実力行使行為は警察法第二条、警察官職務執行法第五条の規定に則つた犯罪の予防及び制止の措置に外ならず、これに用いられた実力行使の方法も事態に適応したもので、合理的な必要限度を逸脱していないものと認められるから、同巡査の該行為は、公務員たる同巡査の適法な職務の執行に属すること明らかである。故に、これを違法視し、被告人の同巡査に対する反撃行為を以て被告人の身体、自由に対する急迫不正の侵害に対抗するための正当防衛行為であるとする原判決の見解が誤まつていることは多言を要しない。

三、前示認定の如く、被告人は、小林巡査が適法な職務の執行として、実力を行使して被告人を取り押えようとするに当り、同巡査に向き直り積極的に立ち向つてこれと激しく格斗を演じたのであるから、この反撃行為自体既に同巡査の身体に対する暴行たるや明らかであり、しかも、被告人は、右格斗中同巡査を制圧する目的を以つてその携帯する拳銃を奪取しようとしたのであり、その行為は直接には同巡査に向けられた有形力の行使ではなくても、やはり同巡査に向けられた有形力の行使に外ならない。けだし、拳銃保管の責に任じ、これを奪取されることのないよう保管上最善の注意を守らなければならない警察官にとつては(昭和三十年八月四日警察庁訓令第一四号警察官けん銃使用及び取扱規範第五条前段、第二十九条第二号参照)、その職務を執行するに当り所携の拳銃を奪取されそうな事態となれば、その防止のみに注意を奪われ、それがため職務の完全な執行を妨害されることとなるから、これまた公務執行妨害罪(刑法第九十五条第一項)における「公務員に対する暴行」に該当するものと解するのが相当である。

四、以上説示の如く、本件公務執行妨害の公訴事実に対し、原判決は所論のとおりその前提たる事実の認定において誤認を冒しひいては法令の解釈適用を誤まつたもので、右の過誤は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法第三百八十二条、第三百八十条、第三百九十七条第一項により原判決を破棄し、同法第四百条但書により当裁判所において自判することとする。

被告人は、

第一  昭和三十六年十二月十日午後一時頃横浜市神奈川区六角橋町三百五十二番地の自宅において、母中川チヨウ(明治四十五年生)の申出により被告人の非行を説諭するため来宅した神奈川警察署勤務、神奈川県巡査小林修の姿を見るや、同巡査が自己を逮捕しようとするものと即断し、その場から屋外へ逃げ出す目的を以つて、且つ又、母チヨウが右の如く同巡査を呼んで来たことに対する憤慨の念にも駆られ、逃げようとする被告人の前に立ち塞がつた母チヨウに対し、いきなりその顔面を手をもつて数回続け様に殴打する暴行を加え、

第二  その際、前記巡査小林修が同家玄関からこれを目撃し、現に行われている被告人の右暴行を制止し、且つ放置すれば更に継続して行われることの予想される次の暴行を予防するため、「おふくろさんに何をするのだ」と言いながら、即座にその場へ踏み込み、被告人の背からその手を掴んで取り押えようとするや同巡査に立ち向つて組み付き激しく格斗すると共に、更に同巡査を制圧するため同人所携の拳銃の銃把を握つてこれを引抜き奪取しようとする等の暴行を加え、以て同巡査の公務の執行を妨害したものである。

右の事実は、≪証拠省略≫を総合して、その証明十分である。

法律に照すと、被告人の判示第一の所為は刑法第二百八条、罰金等臨時措置法第二条、第三条第一項第一号に、第二の所為は刑法第九十五条第一項に各該当し、所定刑中いずれも懲役刑を選択して処断すべく、以上は同法第四十五条前段の併合罪であるから同法第四十七条、第十条により重い公務執行妨害罪の所定刑期に併合罪の加重をした刑期範囲内において被告人を懲役弐月に処し、情状刑の執行を猶予するのを相当と認めるから同法第二十五条第一項第一条により本裁判確定の日から壱年間右刑の執行を猶予することとし、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文によりその全部を被告人に負担させる。

よつて主文のとおり判決する。

検事 原長栄公判出席

(裁判長裁判官 坂間孝司 裁判官 栗田正 裁判官 片岡聡)

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